ロマンチックモード

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映画「アントマン&ワスプ」

あらすじ:
30年前の仕事で量子世界に取り残された初代ワスプを助け出す為、量子トンネルを完成させる。

4月25日、ランチの時間を合わせてくれた姉と私はラーメン屋にいた。1杯1,000円もする高級ラーメン屋だ。その席で私は宣った。「あれだけ欲しがった王座についてしたことといえば黄金の像の建設と自分を崇拝する演劇の上映だよ?ロキが何をしたっていうんだ!ワーン!」カウンターで泣き叫ぶ私を宥めながら姉が貸してくれたのが「アントマン&ワスプ」である。いよいよ明日に迫った「エンドゲーム」時間の都合上最後のおさらいとなる作品となったわけだが、なかなか難しい映画であった。


調整機の故障で体の大きさが大きすぎたり小さすぎたり、カーチェイスがあったり、1作目同様等身大とミクロな姿を高速で切り替える戦闘に加えゴーストまで出てきた本作、こう並べると派手に見えるが実質かなり科学的で真面目に話を聞こうとすると結構難しいと感じた。ただ、それ抜きでもでかいアクションのわりに雑な派手さがないのがこの作品のいいところなのかもしれない。いい意味でフレンチっぽいと思った。


今作の敵であるゴーストが被害者であるというのも要因かもしれない。スコットが調子のいいキャラクターなので緩和されているが、研究による人体への影響とそれを利用するS.H.I.E.L.D.という「あ~やりそう~!」な組織が絡み、誰が被害者で誰が加害者なのか、その線引きの難しさも魅力の一つだ。


何故この作品を最後の振り返りにしたかというと、わざわざIWの後に公開されたからである。あの絶望の状況で、1作目の空気を知る人たちが「どんな気持ちで見ればいいのか分からない」となった心境を垣間見る。そしてそこにはIWを見た後だからこそ希望が持てるような要素が散らばっていたのだった。


めちゃくちゃ端折ると、量子トンネルは無事完成し、ワスプは量子世界から助け出された。ゴーストの治療をするため、小型化された量子トンネルを使いスコットが物質を採取しに量子世界へ入る。予定通り物質を採取したスコットはあと3秒で現実世界に戻るはずだった。現実世界で待っていた3人が塵にならなければ。


この時ワスプは色々なことを言っていた。クマムシは人も食べてしまうだとか、時間の渦が危険だとか。量子世界に取り残されているとはいえ、彼の存在はすでに予告で確認できるので大いに期待してしまっている。ワスプの武器(物質の量子を操り巨大化させたり矮小化させたりできる)があればもうサノスなんて目じゃないのでは?という暴論まで言いたくなってしまう。


ところで昨日見たIWの既視感はこの作品には出て来なかったのだった。どうやら何かと勘違いしているらしい。


予告でも、この「アントマン&ワスプ」でも執拗に主要人物が甲子園の砂化してしまうのがもうしんどくてたまらないのだけど、特に「アントマン&ワスプ」のエンドクレジットの一番最後はもう完全にホラーだった。テレビの放送は止まりカラーバーが流れ、アリだけがドラムを叩いている、というものだ。全宇宙の半分が無作為に消えるというのは、つまりこういうことなのだというのを見せつけられた気がした。


というわけで、明日いよいよ「エンドゲーム」を鑑賞する。穴抜けなのが惜しいけれど、IWを見てしまった今どれを見てもあの未来につながると思うと安心して楽しめない気がする。なのでこれでいいのだ。そうして「エンドゲーム」が楽しめた暁には、改めてすべての作品を見て、「エンドゲーム」を観たい。映画って、本当にいいものですね。