ロマンチックモード

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映画「蜜蜂と遠雷」と小説「蜜蜂と遠雷」

先に映画を観てから小説を読んだ。もちろん映画が良かったので小説を読んだのだけど、小説を読んだ後に映画を観た方々が怒り心頭だった理由が良く分かった。ただこれは、映画も良く頑張ったと思う。以下映画・小説両方のネタバレをしています。


あらすじを思い出してみる。

主人公・栄伝亜夜は幼い頃からピアノの才能に溢れ、ジュニアコンクールを制覇しCDデビューもしていたものの、母の死をきっかけに一線を退いた。齢13歳の頃である。人前で弾くことはなくともピアノを弾き続けた彼女は6年後、亡き母を知る師の勧めで音楽大学に入学する。誘ってくれた師の面目をたてるためコンクールに出場することにした彼女は、そこで3人の「天才」と出会う。


映画、小説に共通するあらすじとしてはこんなところだと思う。上下巻に渡る小説を読んだ感想としては、これを2時間の映画にまとめるのはまず不可能だろうな、ということだ。『映像化不可能』なんて言われていたみたいだけど、正直1クールのドラマだったらとてもよい感じに収まったんじゃないかな、と思う。


なにせ天才たちの障壁って、傍目には「ない」も同然なのだ。コンクールだし順位が付けられるものではあるものの、いざ演奏となると彼らは自分と戦う。これは過去にピアノコンクールの特集をテレビで見たときに驚いたことの一つであるし、この小説でもそのような表現がされているので間違いないと思う。どんなに美しくミスなく演奏し客席を沸かせたとしても、コンテスタントはその直後に「もっとうまく弾きたい」と言う。天才にゴールはないらしい。小説ではそういった芸術的感覚の障壁を描いている。これを映像化しようとすると、全て心の声として読み上げるか、時間を掛けて表情を追い続けるかのどちらかになると思う。


映画「蜜蜂と遠雷」は全く違う手法を取った。天才たちがぶつかる障壁を凡人にも分かりやすく可視化してくれたのである。例えば「人前で弾くことに抵抗を覚える主人公」であったり、「気難しいオーケストラの指揮者」だ。この二つは私が映画を観て違和感を覚えた二つであり、映画として成り立たせるために創作されたものであった。映画では他にも細かな改変はある(高島明石の周辺が顕著だ)ものの、そこまで違和感はない。そして、小説を読んだ多くの人が憤慨したのは、特に「気難しいオーケストラの指揮者」の登場だと思う。三次予選のオーケストラとのリハーサルは小説でも描かれているのも相まって、戦略家タイプのマサルがぶつかるわけないだろう、とか、そのエピソードをやりたいなら風間塵の障壁として描くべきだったのではないか、などなどこのシーンへのツッコミは出てきて当然である。


個人的には、映画として分かりやすい障壁を用意し、最後には芸術的手法でこの壁を乗り越えていく天才たちを描く、という意味では決して悪くはなかったし、なによりそれを乗り越えた先にある演奏シーンはどれも素晴らしくカタルシスをもって描かれたので、うんまあ、仕方がないけどいいんじゃないか、映画だし、という感想だ。


つまるところ、小説が崇高すぎたのだ。本選の彼女の演奏について全く記述がないあたりも、もうなんの心配もいらない、彼女が音楽に祝福されることが約束されていると解釈でき、これ以上ないラストであった。コンクールを描く小説としてクライマックスにしたくなる本選がエピローグになっているのが、最高としか言えないのである。オマケのように添えられた順位が笑えるくらいだ。


それで、今は「私ならどう映像化するかな」とか考えている。全部はとても無理だけど、何か方法があるのではないかな、と思うのだ。そして、こういう登場人物の「過去」が「現在」に大きく影響している映画って、是枝監督が得意だよな、なんて思ったのだった。唸りながら、そろそろ『SAVE THE CATの法則』を読んでみようかな、と考えている。