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仮面ライダーゴースト:47話まで(!)


テレビシリーズの個人的な感想ですが、夏映画の重大なネタバレがうっかり含まれています。
サブライダーの親殺しと怪人たちの最期に頭痛がするほど泣いてからもう1年が経とうとしています。戦隊の動物たちは難なく話数をこなしており、その個性を失うことなく40周年のお祭り騒ぎも終わろうというところですが、ちょっと、ちょっと待って、ちょっと私の話を聞いてはいただけませんか。
この夏の映画で通算4度目の死を迎えた主人公・天空寺タケルさんなんですけど、まず顔が可愛い。(この今更感)金髪の浮かない肌の白さとつぶらな瞳、大きな口を開けるとくっきり浮かぶほうれい線。困ったり考え込んだりすることの多い役どころですがパッと繰り出される満面の笑顔はそのままこっちが永眠しそうな勢いの尊さがあります。そんなタケル殿ともうすぐ会えなくなるなんて!会えなくなる!!なんて!!!!
もう散々言われ続けていますけど本当にゴーストの物語は不可思議そのもので、結局今タケル殿どないやねんって感じなんですけど、一番真面目な批判としてはやはり幾度もの「死」を乗り越えてしまう描写だと思うんですよね…。ただ、個人的にそれによって描かれたメッセージは素晴らしいと思うので、全力で擁護したい。そのように思っているわけなんです。
実は「4度目」と書いておきながら本当は何回死んだか分かってないんですけど(!)タケル殿が「死」を迎えるたびにとても重要で心に留めておきたいことが周りから提示されていると思うんです。
最初の死は勇気を持って丸腰で眼魔に立ち向かって迎えました。今となっては、この行動自体が誰にでもできることではない行為だと思います。その次は自分の命を差し置いて他人のために限られたチャンスを使った。これも誰にでもできることではないのですが、その行動に対して御成からは僧侶の立場から「自己犠牲」という行為のある種の愚かさ、アカリからは幼馴染の立場から純粋に「タケルが生き返って欲しい」という欲求、というものが描かれます。とうとう消えてしまったかと思われた時には、「人の記憶こそがその人である」という流れから最終フォームが爆誕。そして映画では「生きるということは、ごはんを食べることだ」というこれ以上ないセリフが全員の笑顔と共に映し出され、映画で私はとうとう泣いてしまったのです。
じゃあマコト兄ちゃんとアラン様はというと、ひたすら「自分と向き合う」ということをしています。アラン様の向き合い方は非常に丁寧に描かれてキメ台詞にまでなりました。「迷ったら心に聞く」というのは度ストレートでいいと思います。マコト兄ちゃんはそれこそ小さな頃から巻き込まれていて、ずっと妹のため、ツン期が終わると今度はタケルの為に奔走していましたが、ディープ眼魂によって生み出された自分の深層(ディープ!)心理と物理的にぶつかっています。なんの違いもない姿かたちなので見てるほうとしては「今どっちやねん!」となりますけど、残念ながらそれで合ってるってことなんだと思うんです…もう1人のマコト兄ちゃんはそれまで本人が押し殺してきたもう1人の自分なんやで…。
タケル殿の「死」を通じて「生」というものを多方面から描いているわけですが、タケル殿がこの物語の中で向き合ってきたもの、それはずっと偉人や眼魔に狙われた被害者という「他人」だったんですよね。生き返るために他人と向き合ってきたタケル殿がここに来てようやく自分と向き合っている。先週の47話はそういった所にたどり着いたんだと思います。
今は亡きお父さんが企てアデルがやろうとしてることは、雑に言うと「人類補完計画」と同じような感じですかね。争いや諍い、「死」という概念そのものをなくすには「生」を、「個性」をなくせばいい。正直この辺りはあまりよく分かってなくて鼻ほじりながら見てるんですけどね!ハハハ!
本筋とは関係のない部分の小話でたまにイラッとさせられることもありましたが、総じて目に耳に楽しい1年間が終わろうとしていて本当に寂しいです。御成の僧侶あるまじき発言は煩悩に塗れた一番人間臭い発言だったので個人的には100点です!アカリの「あんたそれでも僧侶なの!?」という100点のツッコミが入ったので200点でもいい。そういう振り切れた描写もこの作品のいいところの一つだと捉えながら、本当にどうなるのか分からない仮面ライダーゴースト、最終話まで楽しみたいと思います。人生は誰もみな1度きりさ、という歌詞がここにきてひっかかりながらも。*1

*1:ここまできたら、なんとしても生き返って欲しいんだ私は!