ロマンチックモード

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第20話 恐ろしいこと

6月25日、全くアウトプットできていないことに気付く。上手にアウトプットするには、し続けることが一番であるので、気を付けなくてはいけない。

呪われた館

呪われた館


ここ最近は、映画を観るハードルが下がっているので色々と見ている。「プロメア」や「アナと世界の終わり」、「ザ・ファブル」も観た。家ではようやくNetflixに入ったので「ザ・シェフ」や海外ドラマも見るようになった。特にお気に入りは「アメリカン・ホラー・ストーリー」で、泣いたり笑ったりしながら人を殺めるエヴァン・ピーターズに夢中だ。


私はホラー映画が苦手だ。ホラー映画というか、痛いのがダメなのだ。ゾンビはすでに死んでいるので特に痛くないのだけど、例えば「SAW」シリーズは絶対に無理だ。痛くて死にそうになる。
私はホラーゲームの実況が好きだ。ホラーゲームと呼ばれるもののほとんどは実はシューティングゲームだったりパズルゲームだったりするからだ。的の見た目がちょっとグロテスクなだけで、本質はそこだと思っている。


ホラー映画が苦手だけれどエヴァン・ピーターズは観たい私は、「アメリカン・ホラー・ストーリー」(通称アメホラ)シーズン1『呪いの館』を怖々と見始めた。序盤こそいちいちギャー!と騒ぎながら、1話を3日ほどかけて見終えたのだけれど、最後の方は「この人は幽霊なのか否か」「どういう経緯でこうなったのか」「何が真実なのか」という興味の方が勝り、2話以降は平気な顔をして見てしまった。1話を見終えて気付いたのだけど、テレビドラマなので規制が私のホラー耐性と丁度良くマッチしていたのだ。見た目がグロテスクだったり多少臓物は飛び出るけれど、直接的な破壊描写がないので痛くないのである。

そして、なによりこんなに興味をそそられたのは久しぶりだった。次々と出てきては不穏なメッセージを残していく登場人物たちのバックボーンの見せ方が秀逸なのだ。そしてこのドラマには幽霊あるあるのルールがない。彼らは私たち人間と同じように現れ、会話し、楽しむ。唯一食事だけがない感じだ。それがまた混乱させていくのだ。誰が幽霊で誰が人間なのか分からない。

エヴァン・ピーターズは銃乱射事件を起こし、呪いの館で警察に射殺されたティーンの役だった。事件を起こした理由はなく、幽霊になっても自分の欲望と相手の願望を斜めに受け止めては殺戮を繰り返しながら、受け止めてもらいたい相手には尽くし、愛を語り、愛が欲しいと泣きだす。劇中では「サイコパス」と呼ばれ、それは怪物であった。

だが、本当の怪物はエヴァン・ピーターズではなかったのだ。それがシーズン1の一番の恐怖なのであえて書くことはしないが、本当に面白かった。


恐怖というのは、分からないこと、得体の知れないもの、に対して抱くのだろうかと、アメホラを観ながら考えていた。1話はどんなテイストでどの程度のホラーなのか分からず、登場人物のバックボーンも分からない。それらすべてが恐怖へとつながる。でも見進めていくことで恐怖より興味が勝っていく。そして最後のオチでまた恐怖に落とされる。話数を追うごとに登場人物のことが分かってくると、たとえ幽霊でも恐ろしさは消える。だからこそ、最後の最後に一番得体の知れないものが現れるのだ。そういう風にしてホラーストーリーは紡がれる。


何故恐怖について考えていたのかというと、最近将来や自分の周りについて唐突に不安になることがあるからだ。不安とは、恐怖の一種だと思う。老後までに2000万円必要だとかいうやつだ。そんな先のことは「分からないこと」だから不安になる。それと一緒に、ここ最近あまり「友達と遊ぶ」ということをしていないことにも気付いてしまった。友達がいるか「分からな」くなり、不安になる。そんな感じだ。


それで、何をしたかというと、「分からないこと」を理解してみようとした。老後までに2000万円貯めるにはどうすればいいのか、簡単なキャッシュフローを作ってみたのだ。あとで作成経緯を記事にまとめておこうと思っているのだけれど、いざ作ってみると、10年おきに車を買い替え、3000万円の家を建てながら2000万円の貯金を作ることは可能そうだった。それが分かると、突然不安は消えた。そう、分かると怖くないのだ。


でも現実のことを全部理解するのはとても大変だし不可能であるから、その恐怖を忘れるためにわざわざ自分から別の恐怖を味わいにホラーを観たりするのかもしれない。アメホラシーズン2『精神科病棟』を観ている間に、大人になってからできた友達からお酒のお誘いのメールが入った。でもその頃には私の恐怖はドラマの中にしかなかったりするのだ。まあ今はアウトプットに時間が掛かりすぎることのほうが恐怖なのだけれど。