ロマンチックモード

日常と映画と本と音楽について

第23話 思い込む

9月23日、3連休最終日は温帯低気圧の影響で土砂降りの一日となった。


撮る写真や綴る文章が好きでいろんな媒体でフォローしている人がいる。複雑な家庭環境から自立し、自らの力だけで家を購入し、その後結婚したその流れをSNSを通して見てきた。難病が発覚したことも見ていたし、大きな手術をしたのも知っている。そんな中でもペットを愛し、エンタメを愛し、病気もなんのその果敢に運動し、たまに自撮りを上げて可愛い顔を見せてくれる。恐らく年下だろう彼女を私は心から尊敬している。


でもたまに、どす黒い感情が自分の中に貯まる。私から見てセンスが良く、顔も可愛い彼女がたまに「自分を可愛いと思い込むことが必要だ」とか、「センスのなさを荒い画像で隠すのだ」とかいう主旨の発言をすると、分かりやすく私のソウルジェムは濁る。


親戚、親、学友、通りすがりの人から「可愛くない」「ブス」「デブ」「消えろ」と言われ続けた結果である。大人になってからは親と通りすがりの人くらいになり、最近は通りすがりの人くらいになったが、いまだ「ブス」と「消えろ」は言われる。なにか言いたくなるオーラでも出ているのだろうか。こういう話をすると驚かれることの方が多いので、私以外の人はあまり言われていないのかもしれない。そうなってくると、「なるほど、私は客観的に見てそうであるという確率が高くなってしまうな」と思わざるを得ない。


そういう経験が、「SNSに自撮りを上げれてしまう人」が自分の美醜を低く見積もっていることに反応し、濁らせる。正直な話、ひどく落ち込むし、そう思ってしまうことに自己嫌悪を覚える。


この感情をどうにか切り離してしまいたいと思い、これまでいろいろと試してきた。定期的によく行ったのは「諦めること」だ。はいはい、私はそうですよ、と認めてしまうのである。これは非常に有効で、すべてどうでもよくなる魔法の言葉だ。誰に何も期待せず、自分自身にも期待しないこの方法は、一定期間効能が続き、その期間は極めて安定した精神を保てる。これまで何度か試した中で、最長は3年ほどだ。


ただ、この方法は反動が激しい。精神が安定していると周りに人が増える。するとしばらく経った時に猛烈な「信頼」への渇望が生まれるのだ。信頼、期待、そういった感情が唐突に生まれ、信用したい、期待したいと思うようになる。自動的に、その信頼や期待に応えて欲しいと思う。そう思った瞬間に、この方法で得た安寧は崩れ去る。


遠くからわざわざこちらに来てマウントを取るタイプの人にも以前から好かれていたのだけど、この人たちについての対処法はかなり最初の方から一貫していた。「相当私のことが羨ましいんだろうな」と思うのだ。これは今まで一度も崩れたことの無い方法で、しかも多分正解だと思う。こういう人はしばしば私の観測範囲外に生まれ、唐突に視界に入り込み、「あなたの世界でも私がナンバーワンだ」みたいなことを言う。完全に「知らんがな」であるし、わざわざ言いに来たということは私のことを「自分がナンバーワンである世界を崩す脅威」とでも思っているんだろう。それをシンプルに言ったのが「相当私のことが羨ましいんだろうな」という考え方だ。


3連休最終日の夜は、1人の夜だった。別に珍しくもない夫が夜勤の夜だ。少しさぼり気味だったここ最近の反動が出たのか、17時でゼルダを切り上げて、夫の弁当用のおかずをこしらえたあと、フィットボクシングで汗を流した。シャワーから上がったら21時半になっていたので、少々悩みながらも結局Netflixで「イングロリアス・バスターズ」を観た。そして、布団の中で久しぶりに考えている。そろそろ切り離す方法を得てもいいのではないか。たまに顔を出すこのどす黒い感情を。


気持ちの墓場が欲しい、と常日頃から思っていた。このドロドロした気持ちにもどうにか成仏して欲しいのだ。でも言葉に出すと、どこかに言葉として残ってしまうと何かが溜まってしまうような気がして二の足を踏んでいたところで、思い出した。「思い込むことが必要だ」と。私から見て素敵な彼女も、どこかで私のような経験をして、そう思えなくなってしまったのかもしれない。それで、言い聞かせているのかもしれない。自撮りを載せちゃうのはすごいなと思うけど、そうすることで得られる「いいね」で彼女も心の傷をなんとか癒そうとしているのかもしれない。


美醜に限らず何かを好きだというと詳しい人からマウントをされたりしてきたし、マウント自体は良くてもそれによって寄ってくる人が面倒だなと思って色々と避けてきたけれど、そろそろ最後の成長時ではないだろうか。40歳になる頃には、今から思い込んだ自分になっているように。