ロマンチックモード

日常と映画と本と音楽について

映画「帝一の國」を見ました

5月中旬、10年使った一眼レフをとうとう新調しようかと思い立ちヨドバシカメラに出向いた。フリッカー現象に悩まされている現場がある、望遠は別で買うよりキットでそろえてしまった方がパフォーマンスがいい、予算内で買えそうな短焦点はあるか、など話をしながらポイントの割り振りまで決めた所で一旦家路についた。
実のところ2年ほど前からよくあるけれどちょっと言うには恥ずかしい持病を患ってしまって、月に一度必ず通院している。残念ながら良くなる気配がないまま2月に一度簡単な手術をしたけどあまり変わらず少しずつ少しずつ悪くなっていく中で、病院の会計待ちをしていると要入院の手術を受けるであろう患者の予定請求額が耳に入ってきてしまった。
ヨドバシの店員さんが教えてくれたことをパンフレットやインターネットを見ながら思い出しつついざ貯めていた金額を見たときに、ふとその入院・手術の費用が脳裏によぎって、もう諦めざるを得なかった。もちろん保険でまかなうことができるだろうけど、あまりにもギリギリすぎる。これに手を付けなければ万が一にも対応できるのだ。
はーそうか、まだ買えないな、なんていつもなら簡単に諦められていたことができなかった。どうしてもカメラが欲しい!とか、なんで病気治んないの!とかじゃなくて、ただこの3年コツコツ貯めてきたお金が使いたいときに使えないことに心底がっかりしてしまったのだ。
私は全てを我慢することはできないけど、限界を設けてそれを守ることはできるので、我慢のしすぎで心が貧しくならない程度にはモノを買ったり遊んだりしてきた。してきたけど、でもやっぱり我慢してきた。限界を設けてそれを守ることができる、というのは「これは大好きだから譲れない、買ってしまおう!」というのもできない、ということでもある。最低限の消費行動はするけれど、本当に欲しいものを買わずに我慢してきたのだ。3年間。3年間、「本当に欲しいもの」を我慢して貯めてきた末に、やっぱり「本当に欲しいもの」が買えない。
この日、昨日までの3年間でしてきた我慢がドッと押し寄せたような気がして、「余りにも長くて辛い3年間だった」と吐露してしまったけれど、本当に長かったのはいつもなら5秒でできていた諦めに行き着くまでの20日間だったような気がする。ありがとう「帝一の國」、目が覚めた私は今氷室ローランドのマットになりたい。どんなに辛いことがあっても人生を終わらせるような逃げ出し方をしてはいけない。枯れ葉に覆われながらジッと待ち、時に助けよう、氷室ローランドを。

この映画を見て楽しそうに話している人たちが私を日常に戻してくれた。1人の世界は好きだけど、時に辛く寂しい。混ざりたいと思えて本当に良かった。でも結局なんの解決もしていないし、これまで何度もしてきた「諦め」に、いつもより時間がかかってたどり着いただけだ。私は分かっている。昨年放送された「逃げ恥」で、なかなか動かない平匡に電車の中でみくりは「もういい」と諦めの涙を流していたけれど、それを見ながら私は思ったのだ。「その諦めは、周期的に何度もやってくるものだ」と。諦めても諦めても期待してしまう。何度繰り返してもそのループからは逃れられないんだろう。