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映画「アベンジャーズ/エンドゲーム」


「アベンジャーズ/エンドゲーム」最新予告


1回目は公開初日、ソーマラソンを完走し、「インフィニティ・ウォー」、そして「アントマン&ワスプ」を観た状態で鑑賞した。その後、「アイアンマン2」「キャプテン・アメリカ/ザファーストアベンジャー」と時系列に見進め、吹替版と合わせて3回鑑賞した。

以下ネタバレしています。


公開1週間前にいきなり思い立って穴抜けになりながらも鑑賞した1回目、私はかつてないほど動揺した。穴抜けであって、この衝撃。希望はあった、面白さもあった、格好良さも、熱さも、友情も、涙も、全てがそこにあったのに、理解が追い付かなかったのだ。それくらい、完全に、完ぺきに終わった。1回目の鑑賞を思い出すと、正論という名のパンチで滅多打ちにされたような具合だったので、たちまち体調が悪くなり、同じく公開日に鑑賞した姉に連絡を取った。これは、とても1人じゃ抱えきれない。この映画に必要なのは、そう、キャップのグループセラピーである。


トニーとキャップの物語が、あまりにもキレイに畳まれてしまった。キャップについては「シャロンどうなってん」というのが若干心残りではあるものの、スティーブ・ロジャースには幸せになってほしい、という夢を叶える唯一の解がペギーとのダンスであるならば、私はいつまでも拍手を送りたい。キャップへの拍手なら「I can do this all day.」だ。


世界の人口の半分が消えた中で生きてきた5年間は、誰にとっても長かったのだと思う。際立ったのはソーだ。地球の漁港をニューアスガルドとしたはいいものの、アルコールに依存し立派なビール腹を披露してくれた。もともと父親からも「お前ハンマーの神か?」と揶揄されるほどハンマーに依存していたソーであるから、地球で酒浸りの引きこもりをしている、というのは彼らしい落ちぶれ方だなと思った。大好きなのでどうしても贔屓してしまうのだけど、ラグナロク以降立て続けに失い続けたのはソーである。故郷も、家族も、友人も、目の前で失った。しかも「本当に」失ったのだ。つまりソーはキャップのグループセラピーに参加するべきだった。受け入れ、乗り越え、前を向く必要があったのに、それを支えてくれる人がいなかった。少しの民やヴァルキリーもいるけれど、彼らにとってソーは上の人間である。


私が受け入れがたい一番の理由は、やはりトニーの存在だった。「エイジオブウルトロン」でも「シビル・ウォー」でも、トニーの恐怖心が大惨事を招いた。それはトニーが結局のところ「誰も信用していない」からなのではないか?あれだけ力強い仲間がいながら、結局誰も信用できないから自分で大量破壊兵器を作るのだ。それはスターク・インダストリーズが武器を売っていた頃となんら変わっていない。


そんなトニーを救ったのもキャップだった。シビル・ウォーで決定的な分裂があったものの、自分の考えを述べ、相手を思い、いつでも力になるとPHS(!)を送るキャップ。そんなキャップに対しトニーは最後まで地団太を踏んだ。「みんなでと言ったのに、君はいなかった」と。違う。トニーが「インフィニティ・ウォー」の冒頭でグダグダせずにPHSを鳴らしていれば合流できたはずだ。全部自ら招いている。


ここまでトニーに文句タラタラな私だけど、そんなトニーが人気なのも理解できるのだ。あれだけ富と名声と頭脳を持っていながら、中身が未熟さのある人間なのである。トニー・スタークは確かに魅力的な人物に間違いはないけれど、これまでの彼の行動をすべて水に流しても、今回の「この5年は変えるな」というのはどうしても受け入れられなかった。「塵になった人を戻すだけだ」「この5年間は絶対に変えない」超ド級のエゴだ。これをキャップが飲んだ時点で「ソーだけは何があっても助からないな」と思った。トニーは自分のことしか考えられないエゴの塊だ。これは第1作目の「アイアンマン」から徹底している。この局面にあってエゴを前面に出せるトニーがすごいと思うし、それを受け入れられないと思いながらも、1人の人間の心理として理解できる流れであることが素晴らしいと思った。そうしてトニーはタイムトラベルの装置とガントレット(アイアンマン仕様)を作る。最後の発明が「武器ではない」というのが、「アイアンマン」から始まったトニー・スタークの辿り着いたゴールとして完璧だったと思う。


5月17日現在、MCUの全ての作品を鑑賞してようやく思い出しながら「エンドゲーム」の感想を書いているけれど、思い出せば出すほど「また見たい」と思ってしまう。4月18日からMCU作品を浴びるように観てきた1か月だったけど、何故この『MCU』というジャンルがここまで人気なのかが理解できた。「1から10までキャラクターがブレない」。これが唯一で最大の魅力と言っても過言ではないだろう。


トニーはどこまでもエゴイストだし、キャップはどこまでも真面目で、ソーは弱い心を筋肉で隠し、ロキは最後までいたずらの神で、ハルクだけちょっと雑で、ナターシャとバートンは無言で愛し合っていた。バッキーとサムはどこまでもキャップの傍から離れなかったし、GotGはどんな局面でも根底がバカだった。ストレンジはトニーと予想通りぶつかるし、キャプテン・マーベルとワンダは強すぎる。スコットは思い切りのいいおじさんのままだったし、その中に1人だけいる子どもがスパイダーマンことトム・ホランドピーター・パーカーだった。


全員が全員、「アイアンマン」から始まったMCU作品の全ての物事を経て「エンドゲーム」で戦っていた。比べたくはないけれど、スーパー戦隊仮面ライダーを観ているとこの一貫性の素晴らしさがひとしおなのである。受け入れられない、信じられない、地団太を踏みながらも、それでもやはり「エンドゲーム」は最高に面白く素晴らしい映画だったと言わざるを得ない。それが今の私の感想である。


そう、私は「エンドゲーム」を3回観てこれを書いている。つまり「キャップのグループセラピー」を3回受けたことになる。キャップのグループセラピーを受けるとどうなるかというと、受け入れ、乗り越え、前を向くようになる。私の中ではMCU20周年フェーズ6で全員帰ってくるところまで構想済みである。



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このトレイラーで我々に与えられた希望、それがマルチユニバース!10年後と言わずすぐにでもアッセンブルしちゃっていいっすよ!!MCUさん!!!!!そこんとこ宜しくお願いします!!!!!



ちなみにこのマルチユニバースは、「エンドゲーム」内のバナー博士の説明が逆説的に存在を肯定していると認識している。バナー博士の説明を搔い摘めば、時間とは一方向に流れていくだけに過ぎず、過去の行いを変更したからといって現在という未来が変わることはない、というものだ。エンシェント・ワンへの説明では「時間は分岐しない」「違う未来は作られない」ように聞こえていたが、「石の存在」のみに焦点を当てて説明していたからだと解釈できる。石を拝借しキャップが返しに行くまでかなりの時間が経ったように思われたが、キャップが返却する際に戻る過去の時間を「拝借した5秒後」に設定すればその世界から石が消えたのは5秒間だけということになる。
それが何故「逆説的に別の時間軸の存在を肯定しているのか」というと、「時間は一方向にしか流れない」というのは現在という主観でしか語られないからだ。実際NYに戻ったトニーとスコットは失敗し、ロキが4次元キューブを持ち去るという「新たな事実」が生まれたが、それは「現在」に繋がる時間軸の出来事ではない、つまり別の時間軸の出来事である、言い換えると別次元の出来事=マルチユニバースの可能性が生まれたと考えることができる。


ところでこの4次元キューブを持って消えたロキなのだが、普段ロキのモンペでもなんでもない人たちがこぞって「ロキはどこに行ったの?」「最後絶対ロキが帰ってきて助けてくれると思ってた」などと多大な期待をロキに寄せていたのでその責任も今後MCUには取ってもらわないといけない。キャップの盾同様説明責任を果たしていただきたいところである。大いなる力には大いなる責任が伴うからね。