ロマンチックモード

日常と映画と本と音楽について

第19話 感情について

5月30日、2日前に痛ましい事件が起きてしまって、それ以降考えていることがある。


5月27日に椎名林檎の「三毒史」というアルバムが発売になった。40歳を迎えた彼女はいよいよその美しさに磨きをかけさらに強くなり、まだその歌詞の内容は全てをかみ砕くことはできずにいるけれど、少なくとも耳で聴いている分には最高に気持ちよく格好いいアルバムだと感じている。
普段あまりそういうことはしないのだけれど、昨年行われた彼女のライブをテレビで見ることができ、あまりの完璧さに感動して、今回のアルバムについて行われている露出を見ている。


三毒史」。貪り、憎しみ、愚かさの三毒に侵された市井の人々の曲が収められている。このアルバムは「至上の人生」からフィーチャーされていたお経から始まる。はるか昔から、みなに等しく授けられたお経というありがたい真言があるというのに、我々はいまだに三毒に苦しんでいる、と各所で表現していた。後半については言いかえればかなり辛口な風刺のようでもある。


実際このアルバムに収録されている曲の歌詞は、どれも絶望的に救いがないように見える。救いがない、というか、どちらかしかないのだ。喘ぎ苦しんでいるか、まあでも人生こんなもんだよね、の2種類しかない。エピローグを除いた最後を締めくくるのはトータス松本との「目抜き通り」なのだが、発売当時から思っていたことがある。「あの世でもらう批評が本当なのさ」という一文。もうこの世をとうに諦めているような、そう言うことで苦汁に満ちたこの世に納得を付けるような言いぶりで幕を締める。真言があるのに我々はいまだ苦しんでいる。そこから解放されるのはあの世へ行くときだけなのだ。その行き先が、上か下かが分かるときに、ようやくこの世での評価が下される。


ここ最近、MARVEL作品を観続けていた。「アベンジャーズ」というのは、復讐者だ。だが、実際に復讐心にかられた時何が起こるのか、このシリーズはヒーローの格好良さや笑いに包みながら何度も表現していた。復讐心からは何も生まれない。生まれないどころか、いつだって物事を悪い方向へ導く。これを再三に渡って表現している。


痛ましい事件が起こり、犯人の口も閉ざされたと分かった時、気持ちの行き場というものをずっと考えていた。


「恨み」「怒り」という感情が生まれる。この感情は犯人の生死に関わらず残る。まず最初に思ったのは「矛先の在り処」だった。でも感情に矛先は必要なのだろうか?


一瞬、そもそも「恨み」「怒り」という感情自体を手放せば、とも思ったが、そんなわけあるか、とこれまた一瞬で否定した。神でも仏でもあるまいし、というか仏ですら三度までとか言っているのだ…とグダグダ考えていて、ふと気付いた。むしろ、唯一感情だけが誰からも指図されず持てるものなのではないかと。


そして、その感情の矛先が実在しなければならないなんてことはない、と思った。どちらにしろ恨んで怒るだけだからだ。ひとしきり嘆き、悲しみ、恨み、怒り、あいつめ、と責めたて、疲れたら休めばいい。そうして、少しずつ、いわゆる「生活」ができるようになるのが理想だ。24時間365日その感情でいることは恐らく不可能だ。すごく疲れる。その感情を出すことに疲れたら、生活する。そしてまたその感情が湧いてきたら、修まるまで恨めばいいと思う。


つまり、思うだけなら自由だと、自由であるべきだと思った。我々は救われない。でも復讐心は何も生まない。できることは、思うことだけだ。そしていつかこの世とお別れする時に、思うだけで留めたことを評価される日がきっと来る。そう考えずにはいられないのだ。