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アニメ『少女革命ウテナ』/映画『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』

2月18日、昨年12月から1日1話平日お昼のお供に観続けていた『少女革命ウテナ』、お昼にTVシリーズを全話観終え、その足でTSUTAYAに行き映画を借り、ついに、ついに完走した次第です。


※以下『少女革命ウテナ』の結末が書かれています


本放送は1997年。当時中学生だったはずなのだけど、「なんか怖い」という理由で観なかった記憶がある。恐らく決闘場までの絵と音楽が怖かったのだと今なら分かる。大人になってから出会う趣味仲間たちがほぼ必ずこの作品を通っていることを知り、ようやく今になって観ることができたわけだけど、今だから正しく真意が理解できるのだと思うし、私にとっては今が観るタイミングだったのだと思う。


あらすじとしては、主人公であるウテナが薔薇の花嫁であるアンシーを取り合う戦いに巻き込まれる…というものなのだけど、全てを観てしまった今この物語をそんな単純な話じゃなかった、としか言えない。この物語は、「女の子」や「王子様」などといったレッテルに囚われることのない世界を目指す、壮大な冒険活劇だったとも取れる。


ウテナの前には、王子であることにあぐらをかく者、自分を縛るものから逃れたい一心で無関係な他者に手を上げる者、決闘する資格すら与えられなかった者たちが次々に現れる。ウテナは直向きに彼らと決闘し続け、勝利し続ける。結局これらは全て、この世界の「王子様」が「世界を革命する力」を得るための手続きでしかなかった。


この世界の「王子様」は気楽だ。守られることが約束されているからである。王子様の立場である自分がアンシーを助けない限り、刃を向けられるのはアンシーなのだ。アンシーの棺を開けない限り王子は守られ続ける。いや、アンシーの棺を開けない限り、彼は本物の王子様ですらなかったのだけど。


この物語の中では何度もこの「王子様」「花嫁」「男の子」「女の子」という表現が出てくる。男の子は王子様になる資格がある。女の子は王子様にはなれない。女の子は王子様に守られるべき存在。これらは全てレッテルであり、この世界に生きる全ての者を縛る言霊であった。黒薔薇編では男の子を花嫁にしようとアンシーの命を狙う者もいた。彼らは自分では何に縛り付けられているのか、分かっているようで誰も分かっていなかった。世界の中心である王子様でさえも。


ウテナは違った。ついにその扉をこじ開け、アンシーの棺を開いてしまった。薔薇の花嫁であるアンシーを助ける者こそ王子様となり得る。棺を開けたウテナは、しかし女の子だった。沢山の刃が向けられる。「女の子は王子様にはなれない」。もう一方で、アンシーは薔薇の花嫁ではなくなった。


最初こそ薔薇の花嫁は王子様を愛していたんだろう。でも王子様は変わってしまった。自分が身を挺して守った王子はいなくなった。もう王子の代わりに刃を受け続けるのはごめんだ。ついに棺をこじ開けてきたウテナの手をなかなか取らなかったのは、取るとどうなるか分かっていたからだろう。自分に向けられた刃がすべてウテナに行くのだ。それを分かった上で、自らの(分かりづらい)努力が無に帰すと分かっていてもなお、アンシーはウテナの手を取らずにはいられなかった。


TVシリーズ最終話、正直未だに測りかねている。最初、刃の矛先にいた薔薇の花嫁=魔女が解放されたら、それはその棺を開けた王子様に向くだろう、と思った。アンシーはウテナを利用して暁生に扉を開けさせ、そうすれば刃は自然と暁生に向かい死んだのではないかと。しかし魔女を解放したのがウテナという「女の子」だったため、新たな魔女として刃を向けられ棺にしまわれてしまった。ウテナは王子にはなれなかったけど、アンシーを救った。暁生は気付いてないけれど、最後の場面のアンシーはもう薔薇の花嫁ではない。アンシーはウテナの棺を開けるため、ウテナの王子になるため学園を出る…のかなと思っていたのだけど、何かこう、何か見逃しがあるような気が。(オタクの悪い癖)


いや、こういう解釈もアリですよね、とも思っている。最終話に関しては数多の考察で溢れているので…。


で、周囲がニヤニヤする中、満を持して映画を観たら、パラレルワールドなのだ…!ちょっとこの設定でもう一度39話やりませんかと思うほどたまらない1時間半だった。映画の方がより直接的な表現が多く、より難解になっている気がするけど、感覚としては映画の方が気持ちよく解釈できる作りになっていると思う。


鍵がないと騒ぐ王子、ウテナという車に乗るアンシー、邪魔をしてくるその他大勢、「今は出られないけどきっと後から続くよ」と言うデュエリストたち、出たところは舗装されていない道、遠くに見えるのはお城。出口へ案内していた影絵少女にはウテナとアンシーの名前。


役割の決まった世界から一歩外に出たら、道なき道を行くしかない、ということなんだろう。それでも、全てをさらけ出せる相手さえいれば(それは王子様や花嫁でなくてもいい)進むことができる。そしてそれは「自分の意志で進むこと」が何より大切なのだと。


映画は及川光博が王子様こと暁生を演じたのだけど、とても良かった。とても良かったしエンディングが『フィアンセになりたい』。か、完ぺきかよ…。



この難解でメタファーに富んだ『少女革命ウテナ』、何故みんなの心を掴んで離さないのか、本当に良く分かった。正解なんてない。ブログの数だけ、投稿の数だけ、人の数だけウテナが残した傷跡が存在するのだ。それになんたってまだ、完結してないのだから。